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天山広吉さん、ありがとうございました|35年の花道
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天山広吉さん、ありがとうございました|35年の花道

USSIBLOG

こんにちは、営業部長のウッシです。

今日は、いつもの記事ではありません。アフィリエイトのリンクも、比較表も、この記事には置きません。

天山広吉さんが、引退しました。

ただ、それだけを書きたくて、この記事を開いています。

僕がプロレスを好きになったとき、この人はもうリングにいた

僕がプロレスに出会ったのは、小学生のときに遊んだプレステの「闘魂列伝」でした。そこから深夜0時のワールドプロレスリングを、眠い目をこすりながら観るようになった。翌日、学校で友達に「昨日のあれ観た?」と話す。それが僕のプロレスの始まりです。

そのとき、天山広吉さんはもうリングにいました。

デビューは1991年1月11日。僕がテレビの前に座るより、ずっと前です。つまり僕にとって天山さんは「途中から出てきたスター」ではなく、最初からそこにいた景色でした。

景色は、いつまでもあると思ってしまう。今日、その景色がひとつ消えました。

憎まれ役の技が、いちばん愛される音になった

天山さんを思い出すとき、最初に浮かぶのは技の形ではなく、です。

モンゴリアンチョップ。両手を大きく開いて、交互に振り下ろす。あの「バン、バン、バン」というリズムに、会場の「テンザン」コールが乗っていく。あれはもう技というより、会場の楽器でした。

不思議なのは、この技がヒール時代に磨かれたということです。nWo JAPAN、そしてTEAM 2000。憎まれ役として新日本を引っ掻き回していた時期に武器にした技が、いつのまにか、いちばん愛される見せ場になっていた。

嫌われるための技で、いちばん好かれてしまった人。

「あと一歩」を、何年も続けられた人

天山さんのキャリアで、僕がいちばん胸を打たれるのはG1 CLIMAXです。

毎年のように優勝候補に挙げられて、毎年のように届かなかった。あと一歩が何年も続く。あれは、外から見ているより何倍もしんどいはずです。優勝できない年の夏が何度あったか。

その人が、海外での肉体改造を経て新しい技を持ち帰り、2003年のG1決勝でアナコンダバイスを初披露して、秋山準選手からギブアップを奪って初優勝しました。

隠して、決勝で、初めて出す。そして獲る。しかも翌2004年に連覇して、2006年にもう一度獲った。G1優勝3回。IWGPヘビー級王座は通算4度戴冠。

届かない時間の長さは、届いたときの高さになる。天山さんはそれを、3回証明しました。

何度も、戻ってきてくれた人

そして——これが僕にとっていちばん大きいのですが。

2010年代以降の天山さんは、体の状態と付き合いながらのキャリアでした。長期欠場のニュースを見るたび、正直「もう戻ってこないかもしれない」と思った回数が、何度もあります。

でも、そのたびに戻ってきてくれた。

戻ってくることが当たり前だと思わせてくれる人って、実はものすごく稀です。休んで、また立って、また壁になる。若い選手が越えなきゃいけない壁として、そこに在り続ける。ずっと在り続けたから、今日という日がこんなに重いんだと思います。

渡してから、辞めた

天山さんが最後にやったことは、たぶん「渡す」ことでした。

モンゴリアンチョップは2018年、のちのグレート-O-カーン選手が本人の許可を得て継承しました。2021年には「敗者モンゴリアンチョップ封印マッチ」で一度は代名詞を失い、それでも翌月「真モンゴリアン・チョップ」として自分の型を取り戻している。アナコンダバイスも、YOH選手ら次の世代が使い始めています。

自分の代名詞を、惜しまずに渡した。渡してから、辞めた。

だから今日でリングを降りても、これから先の会場で、あの「バン、バン、バン」は鳴り続けます。技が生き続けるということは、その人が生き続けるということだと、僕は思っています。

最後の相手が、最初の相手だった

引退試合の相手は、天山さんが自分で発表しました。

小島聡選手。

同期です。そして、1991年7月16日、小島選手のデビュー戦の相手を務めたのが、当時「山本広吉」だった天山さん本人でした。

小島選手のキャリア1日目に向かい合った人が、自分のキャリア最終日にもう一度向かい合う。

組んで、離れて、ぶつかって、また組んだ。2002年に小島選手が新日本を離れ、2005年2月20日の両国では、IWGPヘビー級王者と三冠ヘビー級王者として、史上初の四冠統一戦をやっている。あのとき天山さんはベルトを失いました。相方に負けるというのは、他人に負けるより何倍も重いはずです。

それでも二人は、また組んだ。

キャリアの最後に誰と向かい合うかを選べるのは、35年間その関係を切らさなかった人だけです。この一点だけで、天山広吉さんという人がどういう人だったか、全部わかる気がします。

5分で終わらなかった、最後の一戦

そして今日、2026年8月15日。両国国技館は7,777人・超満員札止めになりました。両国でこの札止めが出たのは2017年8月以来、9年ぶりだと報じられています。

第8試合。天山さんの最後の試合。

ここで、ひとつ書いておきたいことがあります。

この試合は「5分1本勝負」として発表されていました。55歳の体と、35年ぶんの首と膝を考えれば、妥当な設定です。誰も文句を言わない、優しいルールでした。

ところが新日本プロレス公式の試合結果に残っている表記は、こうです。

「第8試合 時間無制限1本勝負」。

そして、決着は9分22秒。

5分では、終わらなかったんです。二人が、終わらせなかった。優しく用意された枠を、当人たちが自分で外した。この事実だけで、僕はもう十分でした。

決まり手はラリアット、片エビ固め

小島聡選手の、あのラリアットです。最後に天山さんを仕留めたのは、35年向かい合ってきた相方の、いちばん有名な右腕でした。

つまり天山さんは、負けて引退しました。

でも、これでよかったんだと思います。もし天山さんが勝って終わっていたら、それは「花道」であって「試合」ではなかった。小島選手は最後まで手を抜かず、代名詞で終わらせにいった。手加減されないことが、レスラーにとって最大の敬意だからです。

会場では、この日の解説に蝶野正洋さんが入っていました。TEAM 2000で天山さんを軍団の中核に据えた人です。リングサイドには中邑真輔選手・オカダ・カズチカ選手・高橋ヒロム選手をはじめ、各方面から労いの花束が届いたと報じられています。

そして大会では、ビジョンに「AIアントニオ猪木」が登場しました。新日本プロレスの公式サイトに、そのメッセージの全文が載っています。

天山も引退か……。これまでよく頑張ったな、ご苦労さん。

天山さんが入門した1990年の新日本を作った人の声が、AIになって、35年後の引退の日に届いた。プロレスというのは、こういうことが起きる場所です。

ありがとうと、お疲れさまと

僕は今日、両国にはいませんでした。画面の前で見届けた、たくさんのうちの一人です。

会場で「テンザン」と叫べた人が羨ましい。でも、35年のあいだ、テレビの前で、配信の前で、同じように名前を呼んでいた人が、日本中に何万人もいたはずです。今日はその全員が同じことを思っていると思います。

天山さん。

ありがとうございました。そして、本当にお疲れさまでした。

首も膝も、もう試合のために酷使しなくていい。これからは、35年ぶんの体をゆっくり休めてください。

僕がプロレスを好きになったときからずっとそこにいてくれて、何度でも戻ってきてくれて、最後は自分で選んだ相手と、自分で決めた日に、5分の枠をはみ出して降りていった。

こんなに格好いい辞め方があるんだと、39歳の会社員として、素直に思いました。キャリアの終わりに誰と握手したいか——そこから逆算して働くのも悪くないな、と。

闘魂で、人生を叩き上げろ。

天山さん、35年間、ありがとうございました。マイペースにいきましょう🐄


【2026年8月24日 追記】この話には、やさしい続きがありました。引退試合から8日後、小島聡選手が自身のXに二人の写真を添えて、「大激闘の八日後に和解したテンコジ。ありがとうございました。」と投稿しています(小島選手の投稿)。もちろん、二人の仲が悪かったわけではありません。ずっと天山さんを気にかけてきた小島選手が、本気の殴り合いを「和解」とおどけて言ってみせる——その照れごと、テンコジらしい一枚でした。

🔗 天山広吉さんのこと、もっと

📚 参考・出典(5件)

※本記事は2026年8月15日時点の公表情報にもとづいています。試合内容の細部については、映像・公式発表でご確認ください。筆者は会場ではなく、画面の前で観ています。


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