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39歳・双子パパ・営業部長の僕が、プロレスと資産形成を発信する理由
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39歳・双子パパ・営業部長の僕が、プロレスと資産形成を発信する理由

USSIBLOG
📖 この記事の目次
  1. 9歳、テレビ画面のなかでムーンサルトプレスを覚えた
  2. 深夜0時、眠い目をこすってワールドプロレスリングを観た
  3. 19歳、初めての生観戦。隣にいたのは今の妻
  4. 21歳、心を折られた1ヶ月。「お前ら代理店は営業失格だ」
  5. ミッキーマウスの教え。「ぬいぐるみを着て、なりきれ」
  6. 20代、暗黒。パチスロとFXで数字に溶かされた
  7. 30歳、帳簿をつけたら「負ける戦いをしなくなった」
  8. その間、仕事は畜産から運送へ。地方へ帰るという決断
  9. 31歳、片働きの家計簿と、おそるおそる戻った投資
  10. 39歳、総資産1,200万円。でも、禁欲はしない
  11. だから、このブログは電卓を叩く

はじめまして。牛のマスクをかぶった営業部長、ウッシです。

この記事は、僕の自己紹介です。そしてこのブログの取扱説明書でもあります。なぜプロレスの技を解説する男が、同じ手で資産形成の話をしているのか。牛のマスクなんてかぶって何を気取っているのか。全部、この一本に書きました。長いですが、これを読めばウッシという人間がだいたい分かります。マイペースにお付き合いください。

9歳、テレビ画面のなかでムーンサルトプレスを覚えた

僕とプロレスの出会いは、リングではありませんでした。ブラウン管の、それもゲームの画面のなかです。

1995年。プレイステーションで発売された『新日本プロレスリング 闘魂烈伝』。当時8歳か9歳の僕は、このゲームに完全に心を奪われました。コントローラーを握って、選手をコーナーポストに登らせて、ボタンを押すと、キャラクターがくるりと宙を舞う。ムーンサルトプレス。あの技を自分の指で出せたときの興奮を、いまでも指先が覚えています。

僕がとくに憧れたのが、そのムーンサルトプレスを使える二人でした。武藤敬司金本浩二。片方は「天才」と呼ばれる新日本のエース、もう片方は小さな体で跳ね回るジュニアの選手。タイプはまるで違うのに、どちらも空を飛ぶ。僕はこの二人を交互に選んでは、ひたすら宙返りを繰り返していました。

この話には、じつは30年越しのオチがあります。いまこのブログで僕がいちばん力を入れて書いている看板シリーズが「闘魂列伝」というレジェンド解説の連載なんですが——その記念すべき第1回が武藤敬司、第2回が金本浩二なんです。

これは偶然じゃありません。9歳のあの日、画面のなかで宙を舞う二人に憧れた少年が、39歳になって、その二人からブログを書き始めた。順番を決めるとき、理屈なんてなかった。手が勝手にこの二人を選んでいました。答え合わせ、というやつです。

ちなみに、ゲームの正式名称は「闘魂烈伝」(烈しい、の烈)。このブログのシリーズ名は「闘魂列伝」(列べる、の列)。字が一文字違います。狙って変えたわけではないんですが、原点へのちょっとした敬意だと思ってもらえたら嬉しいです。

深夜0時、眠い目をこすってワールドプロレスリングを観た

ゲームで火がついた僕は、当然、本物のプロレスが観たくなりました。

問題は放送時間です。当時、テレビで新日本プロレスの試合が観られる『ワールドプロレスリング』は、深夜0時から1時。小学生には完全に「大人の時間」でした。それでも僕は観たかった。眠い目をこすって、音を小さくして、暗い居間でひとりブラウン管にかじりついていました。

そして翌朝。学校に着くなり、僕は昨日の試合を友達に実況するんです。「昨日のあの技がすごくてさ」「あの選手が逆転勝ちしてさ」と。いま思えば、あれが僕の最初の「発信」でした。観たものを、誰かに伝えたくて仕方がなかった。このブログでやっていることと、本質は何も変わっていません。

当時の推しは、はっきりしていました。金本浩二獣神サンダー・ライガーエル・サムライ。全員、新日本ジュニアの技巧派です。派手な大技よりも、細かい関節技や目にも留まらぬ攻防に痺れていました。

いま振り返ると、この趣味は一本の線でつながっています。僕がこのブログでプロレスの技を一つひとつ図解した記事を延々と書いているのは、あの頃ジュニアの技の応酬に夢中になった少年の、まっすぐな延長線なんです。大技一発より、技の理屈が好き。これは9歳から変わっていません。

もうひとつ、あとで効いてくる伏線があります。推しだったライガーもエル・サムライも、覆面レスラーだったということ。素顔を隠して、キャラクターになりきって、リングで暴れる。この「覆面」というスタイルへの憧れは、このあと僕の人生でとんでもない形で回収されることになります。

高校生になると、行動範囲が広がりました。地元のTSUTAYAとゲオに置いてあるプロレスのビデオとDVDを、片っ端から借りました。文字通り、全部です。棚を端から端まで制覇する勢いで、過去の名勝負を浴びるように観ました。この時期に、僕の「プロレス観」の土台ができたと思っています。

借りては返し、借りては返し。レンタル代とお小遣いの折り合いをどうつけるか、当時なりに真剣に計算していた記憶があります。いま考えると、好きなものにいくら使えるかを勘定する癖は、この頃からあったのかもしれません。プロレスとお金は、思えば最初から僕のなかで隣り合わせでした。

19歳、初めての生観戦。隣にいたのは今の妻

映像でさんざんプロレスを浴びてきた僕が、初めて「生」のリングを体感したのは19歳のとき。会場に足を運んだのは、新日本ではなくドラゴンゲートでした。

そして、その隣にいたのが——いまの妻です。

初観戦のドラゴンゲートに、のちに結婚する相手と一緒に行った。これも人生の伏線みたいな話で、我ながら出来すぎています。生で観るプロレスは、映像の何倍も速くて、音が体に響いて、汗が飛んでくる距離の熱がありました。画面越しに30年近く追ってきたものの「本物」を、好きな人と並んで浴びた。あの日の興奮は、いまでも観戦ガイドを書くときの原動力になっています。

余談ですが、この会場で僕は伝説的なやらかしもしています。エレベーターでCIMA選手と二人きりに近い状況になったのに、緊張しすぎて一言も声をかけられなかった。そういう観戦の素顔エッセイも別に書いているので、よかったら。推しを前にすると人間はポンコツになる、という真理の話です。

21歳、心を折られた1ヶ月。「お前ら代理店は営業失格だ」

ここから、プロレスの話が少し離れます。でも、このブログの「もう半分」——お金と仕事の話——の原点なので、正直に書きます。

僕は社会に出て、最初は畜産業界の代理店でドライバーをしていました。飼料や畜産の資材を、メーカーから仕入れて農家さんへ届ける仕事です。運転と現場の段取りは得意で、社内での評価は悪くなかった。正直に言えば、僕はちょっと天狗になっていました。「俺は仕事ができる」と思い込んでいたんです。

21歳のとき、その評価を買われて営業に抜擢されました。そして、仕入れ元であるメーカーが主催する、1ヶ月間の営業研修に送り込まれます。ここで、僕の鼻はへし折られました。木っ端微塵に、です。

研修の担当者は、とにかく厳しい人でした。僕のやること全部を否定してくる。極めつけの一言がこれです。「お前ら代理店は、営業失格だ」。届けるだけの仕事しかしてこなかったお前に、営業の何が分かる、と。

そして迎えた研修最終日の報告会。メーカーの社員が全員ずらりと並ぶ前で、僕は自分の1ヶ月を発表しなければなりませんでした。頭が真っ白になった僕の口から出てきた言葉は、たった一つ。

「毎日、がんばりました」

それだけでした。数字も、根拠も、具体的な提案も、何ひとつ言えなかった。「がんばりました」——気合と根性しか語れない自分が、あの大勢の視線の前でどれだけ惨めだったか。顔から火が出るとはあのことです。

でも、この惨めさが僕を変えました。あの部屋で骨の髄まで思い知ったんです。営業とは、気合ではない。データであり、数字であり、情報であると。「がんばった」は自己満足で、相手に価値を届けた証拠にはならない。数字で語れない営業は、営業じゃない。

正直に言うと、あの担当者のことは当時心底うらんでいました。でもいまは、鼻を折ってくれたことに感謝しています。あの1ヶ月がなければ、僕はずっと「がんばりました」で生きていたはずですから。ちなみにその後、あの人は会社を去ったと風の噂で聞きました。真相は知りません。ただ、僕にとっては人生の恩人の一人です。

ミッキーマウスの教え。「ぬいぐるみを着て、なりきれ」

その研修の期間中、一度だけ、その厳しい担当者と二人で夜ごはんを食べる機会がありました。

さんざん自分を否定してきた相手です。緊張しながらも、僕は思い切って聞いてみました。「どうやったら、営業マンになれるんですか」。すると、あれだけ研修で厳しかったその人が、このときは怒りませんでした。少し考えて、こんなことを言ったんです。

ミッキーマウスは、ぬいぐるみを着たらミッキーになるだろう。お前も、自分が思う『良い営業マン』のぬいぐるみを着ろ。そして、なりきれ

自分の素の性格や自信のなさは、いったん脇に置いていい。理想の営業マン像を頭のなかで作って、その「着ぐるみ」をかぶって、演じきってしまえ。演じているうちに、それが本物のお前になる——そういう教えでした。

21歳の僕には、この言葉が雷のように刺さりました。そして、この教えは僕の営業人生の背骨になりました。うまくいかない日も、自信がない日も、「良い営業マンのぬいぐるみ」をかぶって現場に立つ。そうやって20年近く、営業をやってきました。

……ここまで読んで、勘のいい人は気づいたかもしれません。

いま僕は、牛のマスクをかぶって「ウッシ部長」を名乗っています

これは、あのミッキーマウスの教えの、20年越しの実践なんです。自分が思う「読者の役に立つ発信者」のぬいぐるみを着て、なりきる。それが牛マスクの正体です。そしてもう一つ——僕が子どもの頃に憧れたライガーもエル・サムライも、覆面レスラーでした。素顔を隠して、キャラクターになりきってリングで輝く。

覆面レスラーへの憧れと、ミッキーマウスの教え。この二本の糸が、39歳になって「ウッシ部長」という一つの結び目になりました。牛のマスクは、伊達でかぶっているわけじゃないんです。

20代、暗黒。パチスロとFXで数字に溶かされた

かっこいい話が続いたので、ここらでいちばん情けない話をします。ここを飛ばすと、僕という人間の半分が抜け落ちるので、正直に書きます。

20代の僕は、パチンコとスロットにハマりまくっていました。20歳から30歳まで、ほぼまるまる10年。仕事終わりも休日も、気づけば台の前に座っていました。詳しい店名や機種は書きません。書く意味がないし、これは自慢でも武勇伝でもないからです。ただ一つだけはっきり言えるのは、トータルでは、負けました。当たり前です。

それだけでは飽き足らず、20代のどこかで僕はFXにも手を出しました。「もっと効率よく増やせるはずだ」という、いま思えば根拠ゼロの自信でした。結果は、証拠金が半分に溶けました。値動きにビクビクして、仕事中もチャートが気になって、生活がめちゃくちゃになった末の半減です。

21歳の研修で「数字が武器だ」と学んだはずの僕が、20代は数字にコテンパンにやられていた。ギャンブルの期待値も、為替の仕組みも、ろくに理解しないまま「なんとなく増えそう」で金をつっこんでいた。数字に人生を折られた二度目が、この暗黒の20代です。

念のためはっきり書いておきます。ギャンブルもFXも、僕はおすすめしません。増やすつもりが、時間もお金もメンタルも削られる。僕はそれを身をもって証明しただけの人間です。

30歳、帳簿をつけたら「負ける戦いをしなくなった」

転機は、30歳のときに訪れました。しかも、意外な場所から。

パチスロをやめようと決めたとき、僕はなぜか、やめる前に帳簿をつけ始めたんです。今日いくら使って、いくら戻ってきて、収支はいくらか。ノートに正直に書き続けました。負けた金額から目を逸らさずに、全部記録した。

すると、面白いことが起きました。数字が「見える」ようになると、負ける戦いをしなくなったんです。今日は分が悪い、この状況は期待できない——記録が積み上がると、勝負を「選べる」ようになる。感情で突っ込むのをやめて、引き際が分かるようになった。

最終的に僕は、50万円分を積み上げたところで、勝ち逃げして足を洗いました。誤解しないでほしいのですが、これは「帳簿をつければパチスロで勝てる」という話では、絶対にありません。10年間のトータルでは、僕は完全に負けています。50万円は、10年間で溶かした金額に比べれば、あがきみたいなものです。

でも、僕にとってこの体験は決定的でした。生まれて初めて、「記録すれば、勝負を選べる」ということを、頭ではなく体で覚えたんです。数字は敵じゃない。味方につければ、無駄な戦いを避ける盾になる。21歳で「数字は武器だ」と頭で学び、30歳で「数字は盾だ」と体で覚えた。この二つが揃って、ようやく僕は数字と和解しました。

数字が僕の人生を二回折って(研修とFX)、三回目に、ようやく味方になった。この帳簿が、そのターニングポイントです。

その間、仕事は畜産から運送へ。地方へ帰るという決断

お金の話に集中しすぎたので、ここで仕事と家族の話をさせてください。僕にとって、この二つは切り離せないものだからです。

僕は畜産業界の代理店で、13年間、営業をやりました。あの「がんばりました」しか言えなかった21歳が、数字で語る営業マンに変わっていった13年です。その後、縁あって運送会社に転職し、いまは営業部長を務めています。営業歴はトータルで19年になりました。

この転職には、はっきりとした理由がありました。出世でも、キャリアアップでもありません。家族を守るための、地方への帰郷だったんです。

妻は、看護師でした。責任が重く、夜勤もある仕事です。その働き方のなかで体調を崩し、そして双子の出産で、さらに体調を崩しました。二人いっぺんの赤ん坊を抱えて、妻はなかなか体を戻せない。このとき僕が出した答えは、シンプルでした。地元に——地方に、帰ろう。家業のある地元なら、いざとなれば退路がある。子育て支援も手厚い。妻が無理をせず、家族が寄り添える場所へ戻る。それが最優先でした。

ちなみに、その双子が生まれた日のことは、いまでも忘れられません。生まれる、まさにその当日。会社のトラックが現場でぬかるみにハマって動けなくなり、部下から僕のスマホに電話がかかってきたんです。人生でいちばん大事な日に、トラックがぬかるみ。僕が電話口で言った言葉は、一つでした。

それどころじゃねえ!

どれだけ仕事が押していても、この日ばかりは父親が勝ちました。仕事も家庭も、ぬかるみだらけ。そのぬかるみを一つずつ抜けるために、僕は地元へ帰る決断をしたんです。

その帰郷にあたっての転職交渉の話を、少しさせてください。帳簿の悟りの、いちばんの実践編だからです。

当時の僕の年収は、280万円でした。決して高くはない。それでも僕は、帰郷先の転職先に対して、自分から「年収500万円」を提示しました。280万の男が、いきなり1.8倍近い数字を自分の口から言ったわけです。

無謀な賭けに見えるかもしれません。でも、これは帳簿で覚えたやり方そのものでした。負ける戦いをしない——だから僕は、退路を先に用意したんです。もし500万が通らなければ、地元の家業を継いで自営業でやっていく。その覚悟を先に固めたうえで、強気の数字を出した。逃げ道があるから、堂々と勝負に出られる。感情ではなく、条件を整えてから勝負を選ぶ。パチスロの台の前で覚えたことと、まったく同じ理屈です。

そして、もう一つ。提示額そのものには、迷いがありませんでした。退路は用意した。でも500万という数字は、当てずっぽうで言ったわけじゃない。営業で13年間、現場で培ってきたものが、自分の値段を教えてくれていた。この経験なら、これだけの価値は出せる。そして何より、体調を崩した妻と、生まれたばかりの双子を、片働きで支えなければならない。僕がここで値切られるわけにはいかなかった。守るものがある人間の静かな確信が、あの数字の裏にはありました。

結果は、通りました。280万円だった年収が、500万円になったんです。

思えば、これは21歳のあの報告会の、真逆の光景でした。大勢の前で「毎日がんばりました」しか言えず、自分の価値を一言も語れなかった青年が、それから十数年後、家族を背負って、自分の値段を自分の口で提示できるようになっていた。あの研修で折られた鼻が、ちゃんと数字になって返ってきた瞬間です。折ってくれた人に、いまでも感謝しています。

31歳、片働きの家計簿と、おそるおそる戻った投資

ところが、地方での新しい暮らしは、そう甘くはありませんでした。体調を崩した妻は、結局3年間、仕事に復帰できなかったんです。手に職のある看護師の妻が、それでも働けない。双子を抱えた我が家は、まるまる3年間、僕の片働きでした。2018年頃、31歳のことです。

追い詰められた僕が頼ったのは、やっぱり「記録」でした。パチスロで身につけたあの力を、今度は我が家の家計に向けたんです。家計簿をつけ、お金の流れを一円単位で明確にする。帳簿の癖がついていたので、これは苦じゃなかった。そしてもう一つ、僕は使える公的な制度を、片っ端から調べ尽くしました。児童手当、医療費の助成、税金の控除、社会保険の仕組み。役所や制度は、知っている人にしか手を差し伸べてくれません。知らないだけで損をするのは、もうこりごりでした。使えるものは、全部使う。地元は地方だけあって子育て支援が手厚く、保育料が無償だったのも本当に助かりました。

じつは、このブログで僕が社会保険や税金の記事にやたら熱を入れているのは、ここが原点です。あれは知識自慢じゃなくて、片働きで双子を守るために必死で調べた、あの3年間の続きなんです。

家計の全体像が見えたところで、次は具体的な固定費です。数字を並べると、無駄がはっきり浮かび上がります。僕がやったのは、たとえばこんなことです。

  • セルフカットに切り替えて、散髪代を年間およそ3.6万円カット
  • 毎日の晩酌を卒業して、年間およそ18.2万円を浮かせた(ついでに12kgやせました)

派手なことは何もしていません。ただ、記録して、数字の大きいところから手をつけただけ。パチスロで覚えた「負ける戦いをしない」を、今度は生活費でやったんです。ムダな出費という名の、勝てない勝負を避けていった。

節約でお金が浮いてくると、次はそれを「増やす」段階に進みたくなります。でも、FXで証拠金を半分に溶かした過去がある僕は、投資が正直こわかった。あの値動きへの恐怖が、体に残っていたんです。

だから僕は、いちばん臆病な入り口から入り直しました。楽天のポイント投資です。現金じゃなくて、買い物で貯まったポイントを使って、おそるおそる投資信託を買ってみる。もし溶けてもポイントだから、ダメージが小さい。この「こわくない一歩目」が、僕を投資の世界に呼び戻してくれました。ここから楽天証券でつみたてNISAを始めるところまで進んで、いまに至ります。

FXで溶かした過去がある僕が言うのもなんですが、投資でいちばん大事なのは、たぶん「退場しないこと」です。派手に勝とうとして大金を突っ込み、値動きに耐えられずやめてしまう——20代の僕がまさにそれでした。ポイント投資という一円も痛まない入り口は、僕を「退場させない」ための工夫だった。こわいなら、こわくない金額から始めればいい。それだけのことに、僕は10年かかって気づきました。

そのつみたてNISAは、旧制度が始まって少し経った頃から続けていて、今年でおよそ7年目になります。派手なテクニックは何もありません。毎月、決めた額を、淡々と積む。20代でギャンブルにあれだけ使った男が、いちばん退屈な方法にたどり着いた。でも、退屈こそが正解だったんです。

39歳、総資産1,200万円。でも、禁欲はしない

そして、いまの僕です。39歳。総資産は1,200万円になりました。

20代でパチスロとFXに溶かしていた男が、この数字にたどり着いた。誇るような額じゃないかもしれません。でも僕にとっては、数字と和解した10年間の、答え合わせみたいな金額です。

いまの主軸は、新NISAです。制度が拡充されて、非課税で投資できる枠が大きく広がった。この改正を見て、僕は一つ判断をしました。iDeCoは、あえてやらないという判断です。

老後資金づくりの定番として、iDeCoはよく新NISAとセットで語られます。僕も真剣に検討しました。でも、新NISAの枠が拡充されたいまの僕の状況では、資金を新NISA一本に集中させるほうが理にかなっていると判断した。iDeCoには途中で引き出せないなどの制約もあります。両方やるのが必ず正解とは限らない。このあたりの考え方は、新NISAとiDeCoを比較した記事にじっくり書いたので、興味があればどうぞ。大事なのは「みんながやっているから」ではなく、自分の数字を見て自分で決めることです。帳簿の教えは、ここでも生きています。

目標は、総資産1億円。遠い数字ですが、退屈な積立を淡々と続ければ、時間が味方をしてくれるはずです。

ただし——ここは強く言いたいところなんですが、僕は禁欲型のFIREはやりません

支出を極限まで切り詰めて、何も楽しまず、ひたすら資産を増やすだけの人生。あれは僕の目指すものではありません。好きなことには、ちゃんとお金を使う。プロレスは相変わらず観るし、グッズだって買います。今の人生を楽しみながら、それでも未来のために積む。この両立こそが、僕のやりたいことです。数字は、我慢するための道具じゃない。好きなことを続けるために、無駄な戦いを避ける盾なんですから。

だから、このブログは電卓を叩く

長い自己紹介になりました。最後に、このブログの取扱説明書として、一本の糸を結び直させてください。

僕の人生を振り返ると、数字が二回、僕を折りました。21歳の研修で「がんばりました」しか言えず折られ、20代でパチスロとFXに溶かされて折られた。数字は、長いあいだ僕の敵でした。

でも三回目に、数字は武器になりました。30歳で帳簿をつけ、負ける戦いを避けることを覚え、節約と積立で総資産1,200万円までたどり着いた。数字と和解した瞬間から、人生が回り始めたんです。

だから、このブログは電卓を叩きます。プロレスを語るときも、お金を語るときも、僕はできるだけ具体的な数字で書きます。「がんばりました」で終わらせない。それが、あの報告会で恥をかいた21歳の僕への、せめてもの供養です。

そしてもう一つ。僕がライガーやエル・サムライに憧れた覆面へのロマンと、「ぬいぐるみを着てなりきれ」というミッキーマウスの教え。この二つを20年かけて実践しているのが、牛マスクのウッシ部長です。理想の発信者のぬいぐるみを着て、なりきる。まだまだ中身は追いついていませんが、着続けているうちに本物になれると信じています。

このブログは、プロレスと資産形成という、一見なんの関係もない二つを同じ手で書いています。でも僕のなかでは、どちらも同じ一本の線です。好きなものへの熱を、数字という盾で守りながら、長く楽しみ続ける。それだけのことなんです。

理不尽なシステムのなかで、ひとりで悩みながらも、一歩踏み出したあなたへ。会社で鼻を折られ、ギャンブルで溶かし、それでも家族を抱えて前に進むしかなかった——俺も、そうだった。だからこのブログを書いています。

数字に二回折られて、三回目にようやく味方につけた男が言うんだから、間違いありません。最初の一歩は、こわくない金額で、こわくない方法でいい。うまくいかない日は、理想の自分のぬいぐるみをかぶればいい。記録して、負ける戦いを避けて、好きなものだけは手放さない。それだけで、人生はゆっくり良い方向に転がり始めます。

マイペースにいきましょう。焦らなくていい。数字を味方につけて、好きなものを手放さずに、一緒に少しずつ前へ進みましょう。🐄


※本記事は個人の体験と考えに基づく内容です。投資に関する記述は特定の金融商品の購入を勧めるものではありません。投資は元本割れのリスクを伴います。最終的な投資判断はご自身の責任と余裕資金の範囲で行ってください。

出典:『新日本プロレスリング 闘魂烈伝』(トミー/プレイステーション用ソフト・1995年9月29日発売)。発売日はWikipedia「新日本プロレスリング闘魂烈伝」で確認(2026年7月10日アクセス)。