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田上明|4億円を背負った四天王の現在【闘魂列伝㊳】
— 闘魂列伝 —

田上明|4億円を背負った四天王の現在【闘魂列伝㊳】

USSIBLOG

※本記事はプロモーションを含みます

「四天王って、三沢・川田・小橋…あと1人は誰だっけ」 「4億円を背負って破産したレスラーがいるって本当?」

2026年8月から9月にかけて、東スポWEBで田上明さんの連載「王道の証明」が全20回にわたって掲載されました。相撲部屋を飛び出した話から、三冠、ノア、社長、破産、胃の全摘、そして現在のステーキ居酒屋まで。田上さん本人の一人称で、隠さず語られています。

闘魂列伝シリーズ第38弾は、田上明さん。四天王のうち、引退後の会社の経営と負債まで、本人の口で語った一人です。

🥩 3行でわかる田上明さん
  • レスラーとしての頂点:大相撲・十両から転身し、1988年1月にジャイアント馬場さんと組んでデビュー。「四天王」の一角として、1996年に三冠ヘビー級王座を戴冠して年間グランドスラムを達成した
  • 経営者としての地獄:2009年6月に三沢光晴さんが急逝し、遺族に頼まれて同年7月にノアの社長へ。給料が0円になった時期を経て、2017年2月に約4億円の負債を一人で背負って破産手続きを開始した
  • そして現在:荷物の仕分けやマンション管理人を経て、2018年に胃がんで胃を全摘。いまは茨城県つくば市のステーキ居酒屋の店主として肉をさばいている。「まだ生きてるからいいんだよ」

この記事は、「四天王の4人目」としか認識されていない人の、リングに上がってから会社をたたむまでの約29年を、本人の言葉で追いかけることを目的に書きます。試合の話と同じくらい、お金と責任と引き際の話に紙幅を割きます。

🐄(ウッシ小声:私はプロレスの記事を200本以上書いてきましたが、「破産」の章がある列伝は初めてです。書くのに一番時間がかかりました)

この記事でわかること

  • 竹刀で殴られて相撲部屋を飛び出した高校卒の力士が、なぜプロレスに来たのか
  • 「四天王」を本人が何と呼んでいたか
  • 断崖式喉輪落としを考えたのは誰か
  • 1996年の三冠戴冠と、年間グランドスラムの中身
  • 三沢光晴さんが倒れた日、控え室で何が起きていたか
  • ノアの社長就任後に見た経営の実態と、給料0円の時期
  • 約4億円をなぜ一人で背負ったのか
  • 胃を全摘してから、ステーキ居酒屋の店主になるまで
📚 田上明さんを本人の言葉で読むPR
飄々と堂々と 田上明自伝の表紙
東スポの連載より前に出た本人の自伝です。相撲からプロレスへ、四天王、ノアの社長、そして破産までを本人の口調で読めます。この記事の一次資料は東スポ連載ですが、通して読むならこちらです。
価格・在庫は変動します。リンク先でご確認ください。

📋 田上明さん プロフィール

項目内容
リングネーム田上明(たうえ あきら)
生年月日1961年5月8日(2026年9月時点で65歳)
出身埼玉県秩父市
身長/体重192cm/120kg(現役時代)
相撲時代押尾川部屋。1980年1月初土俵/最高位は十両(1986年5月場所で昇進)/しこ名は「田上」→「玉麒麟安正」
デビュー1988年1月・後楽園ホール。ジャイアント馬場さんと組んでのタッグマッチ(対 バディ・ランデルさん&ポール・ハリスさん組)
主なタイトル三冠ヘビー級王座(1996年)/世界タッグ王座/アジアタッグ王座/GHCヘビー級王座(2005年)/チャンピオン・カーニバル優勝(1996年)/世界最強タッグ決定リーグ戦優勝(1996年)
必殺技喉輪落とし/断崖式喉輪落とし/ダイナミック・ボム/俺が田上
引退2013年12月・有明コロシアム
現在茨城県つくば市「ステーキ居酒屋チャンプ」店主
★★★★☆ 闘魂列伝 VOL.38
田上明さん
四天王の4人目 / 最後まで降りなかった男
👁 見た目
現役時代192cm・120kg。相撲の腰と喉輪がそのまま武器になった体格。派手なコスチュームはほとんどなく、決めポーズは偶然生まれた「パー」ひとつ。Tシャツには田植えをしている自分や魚を釣っている自分が描かれていた(本人は「着るの、恥ずかしいもん」と語っている)。「田上火山噴火」と呼ばれていた。本人は「俺は火山じゃねえ」と言いたかったという。
⚔️ STATUS※プロレス30年・ウッシの独断評価
🥊 パワー9
⚡ スピード5
🎯 テクニック7
🔋 スタミナ8
😤 胆力10
👑 愛嬌9
🥋 得意技
喉輪落とし 断崖式喉輪落とし ダイナミック・ボム 俺が田上
👑 主な足跡
1980初土俵押尾川部屋。1986年5月場所で十両へ。しこ名は玉麒麟安正
1988デビュー1月・後楽園ホール。師匠ジャイアント馬場さんと組んで勝利
1992世界タッグ王座3月・日本武道館。ジャンボ鶴田さんと組み4回目の挑戦で戴冠
1996三冠ヘビー級王座5月24日・札幌。三沢光晴さんを喉輪落としで破り年間グランドスラム
2000ノア旗揚げ参加8月旗揚げ。取締役に就任。当時39歳
2005GHCヘビー級王座11月・日本武道館。44歳・4度目の挑戦で力皇猛さんから戴冠
2009ノア社長就任7月。三沢さん急逝を受け、遺族の依頼で代表取締役に
2013引退12月・有明コロシアム。藤波辰爾選手と初対戦
💥 必殺技
断崖式喉輪落とし
リングエプロンまで相手を運び、喉を掴んで場外へ叩き落とす技。考案したのは田上さんではなく、同じ聖鬼軍の先輩・渕正信選手。「エプロンまで行ってやったらいいんだよ」という助言に田上さんが「それって反則じゃないんですか?」と返したところ、「反則も10カウント(実際は5カウント)までならいいんだよ。それやって、お前が先にリングに上がって相手が戻ってこなかったら勝ちなんだよ」と返されたという(東スポWEB 連載#9)。

🥋 竹刀で殴られ、部屋を飛び出した

田上さんは1961年5月8日、埼玉県秩父市の生まれです。高校3年の年末に押尾川部屋に入門し、1980年1月の初場所で初土俵を踏みました。

下積みの生活は、連載の中でこう語られています。2か月ごとに出る給金は5万〜6万円。掃除も洗濯も自分でやり、親方がケチだったのでクーラーもストーブもなかった。

1年で三段目、そこから8場所で幕下。十両に上がったのは1986年5月場所で、しこ名も「田上」から「玉麒麟安正」に変わりました。そこから先は幕下と十両を行ったり来たりの時期が続きます。

転機は暴力でした。

「横綱を目指して頑張ってたんだけど、87年の5月場所前の稽古中、親方に竹刀でぶっ叩かれて左腕が使い物にならなくなっちゃった。(中略)『なんでそんなことされなきゃいけないんだ。やってられねえ』って部屋を飛び出して」(東スポWEB 連載#3)

飛び出した先は、のちに妻となる清美さんの部屋でした。次の仕事として本人が口にしていたのは「トラックの運転手にでもなるか」。そこへ、相撲部屋に出入りしていた落語家の楽ちゃん(6代目三遊亭円楽さん)が「体があるんだから馬場さんを紹介してやる」と声をかけます。

面会の場所はキャピトル東急ホテル。第一印象は、身も蓋もないものでした。

「顔、でけえ」
そして親方とは「ずいぶん違って温かみのある人だな」と思ったという。いきなりヘッドロックをかけられて「プロレスは痛いよ」(東スポWEB 連載#3)

🐄(ウッシ小声:「トラックの運転手にでもなるか」の一行で、私は完全に他人事ではなくなりました。私は元ドライバーで、21歳で営業に引き上げてもらった人間です。あの分岐に立ったことがある人の言い方でした)

🤼 1988年1月、師匠と組んだデビュー戦

1987年8月、田上さんは全日本プロレスではなくジャパンプロレスに入門します。理由は当時、角界からの転身者が相次いで相撲界との関係がデリケートだったためで、馬場さんからは「金が出てるところは一緒だから」と説明されたそうです。練習は全日本の選手と一緒でした。

このころ出会ったのが、のちに四天王と呼ばれる三沢光晴さん・川田利明さん・小橋建太さんの3人。三沢さんと川田さんはすでに試合をしていたので、いちばん顔を合わせたのは小橋さんでした。

面白いのは、入団時のエピソードです。「玉麒麟が入る」と聞いて事務所に新聞記者が集まったところ、小橋さんが田上さんと間違えられた。本人は「今でも言われるよ」と語っています(東スポWEB 連載#4)。

力士からの転身でいちばん苦労したのは後ろ受け身。相撲では背中から倒れることは負けなので、体が覚えていません。ちなみに練習そのものは「好きじゃなかったな」とのことです。

給料の決め方も豪快でした。

馬場さんに「お前アパートいくらだ」と聞かれ「10万円ぐらいですかね」と答えたら、「じゃあ13万円で良いな」。あとで清美さんに「これじゃ生活できない」と怒られたという(東スポWEB 連載#4)

なお、デビュー後はギャラ制になり、月に60万〜80万円はもらっていたと本人が語っています。

デビュー戦は1988年1月の後楽園ホール。相手はバディ・ランデルさん&ポール・ハリスさん組、パートナーはジャイアント馬場さんでした。最後はブロックバスターでハリスさんから3カウント。デビュー戦で師匠と組ませてもらったことについて、本人は「最後の弟子ぐらいに思ってくれてたんじゃねえかな」と振り返っています。

馬場さんから受けた一番の教えは「技を大きく見せる」こと。細かい技のかけ方や腕の取り方は、ザ・グレート・カブキさんが教えてくれたそうです。馬場さんの人物像についてはジャイアント馬場はなぜ61歳で逝ったのかも書いています。

🐄(ウッシ小声:家賃を聞いてから給料を決める。新卒の初任給の手取りを見て青ざめた私からすると、交渉の余地があるだけまだ良心的かもしれません)

👊 「良くない先輩」と、ブーイングの低迷期

デビュー直後の相手はブルーザー・ブロディさん、スタン・ハンセンさん、タイガー・ジェット・シンさん、アブドーラ・ザ・ブッチャーさん。連載では「一緒にやりたくない順位」まで明かされていて、1位はシンさん、最後がブロディさんでした(「アイツは試合はちゃんとやるもんな」)。

そして、もう一人の「嫌なレスラー」として名前が挙がるのが天龍源一郎さんです。シューズで額を蹴られて痕がつく。宿では酒を飲まされ、阪神が優勝した年にはトイレで用を足している最中に頭からビールをかけられ、朝起きたら口に観葉植物が入っていた。

「天龍さんは『良き先輩』じゃない『良くない先輩』だった。昔の選手だからいろいろやられたよね。(中略)今になって思えば全部笑い話だけどね」(東スポWEB 連載#5)

1988年6月には「打倒天龍同盟」を掲げた決起軍にも入りますが、やる気はなく、最後は「お前ら全然決起しないから」で解散させられました。

本人も認める低迷期です。観客からは声援よりブーイングが多かった。ただ総括は前向きで、「何も言われないより『ブー』でも、何か言われる方がいいよね」(東スポWEB 連載#6)。

1990年、天龍さんのSWS移籍騒動が起きます。同年6月に仲野信市さんと初のベルト=アジアタッグ王座を獲るものの、仲野さんも移籍して防衛戦をせずに返上。可愛がってくれたカブキさんも何も言わずに去りました。

それでも田上さんは動きませんでした。

「馬場さんに相撲を辞めた時に拾ってもらった身だから、SWSに行っちゃうと恩をあだで返すことになる。そういうことをしたくなかったんだ。俺は馬場さんを裏切れないからさ」(東スポWEB 連載#6)

🤝 鶴田さん、そして川田さんとの「聖鬼軍」

1990年8月、超世代軍の合宿初日に馬場さんから呼び戻され、「鶴田と組め」と指令が下ります。理由は本人も「背がデカかったから選ばれたのかな」と推測するしかなかったそうです。

ジャンボ鶴田さんとのタッグはハードでした。狙われるのはどうしても田上さんの側。ただ「こういうふうに来たらこういうふうにやり返せ」と技術は教わったといいます。一方で「一緒に飲み行こう」は一度もなかった。

世界タッグ王座は4回目の挑戦、1992年3月の日本武道館で戴冠(対 テリー・ゴディさん&スティーブ・ウィリアムスさん)。しかし鶴田さんは同年11月から欠場してタッグは解散。シングルで鶴田さんに勝つことは、最後までありませんでした。

1993年、川田利明さんと「聖鬼軍」を結成します。誘ったのは川田さんで、田上さんは組みたくなかった。理由は「好き放題やりそうじゃん…、鶴田さんよりひどいかもよ」。

ところが、いざ組んでみると。

「別に一緒にいてワイワイやる感じじゃないし、普段もろくに話もしない。でもアイツと試合したら息が合うんだよ。技をやってほしいなって思う時にアイツはもう形をつくってる。一番多くタッグ組んで『ベストパートナー』だったね」(東スポWEB 連載#8)

序列は「五分と五分」。川田さんが先輩で、田上さんの方が年上という逆転関係でした。

😤 「四天王」は本当は「四バカ」だよ

1993年6月の世界タッグ王座戦(対 三沢光晴さん&小橋建太さん/日本武道館)あたりから、全日本で「四天王」という呼び方が使われ始めます。

呼ばれた側の感想は、そっけないものでした。

「四天王ってのはこっぱずかしくってあんまり好きじゃなかった。本当は『四バカ』だよ。一番大バカなのは俺かもしれないけどね」(東スポWEB 連載#9)

4人の関係も具体的です。プロレスで一番のライバルは川田さん。三沢さんは「やっぱり女だな、モテるから」で、そっちの面でライバル意識があった。小橋さんは「元気のいいあんちゃんだな」。40分を超える試合が続いた時期については「当てないでほしかったよね」と本音がこぼれています。

そして技の話。断崖式喉輪落としを考えたのは、田上さん本人ではなく渕正信選手です。

同じ聖鬼軍の先輩だった渕選手から「エプロンまで行ってやったらいいんだよ」と言われ、田上さんが「それって反則じゃないんですか?」と返したところ、こう返ってきました。

「反則も10カウント(実際は5カウント)までならいいんだよ。それやって、お前が先にリングに上がって相手が戻ってこなかったら勝ちなんだよ」(東スポWEB 連載#9)

ルールの穴から必殺技を設計している。渕選手は他の技も考えてくれたそうですが、「自分が使ってる地味な技は教えないんだよ」というオチまでついています。

もう一つの大技ダイナミック・ボムの出自も正直でした。獣神サンダー・ライガーさんのライガーボムをテレビで見て「あれ、いいんじゃねぇか!」と思い、「違う団体だから、いいだろう」で取り入れたそうです。技の分類そのものが気になる人はプロレス技 一覧【図解】もどうぞ。

👑 1996年、三冠とグランドスラム

1995年4月のチャンピオン・カーニバルは優勝決定戦で三沢さんに敗れ、9月の三冠戦でも敗退。三沢さんについては「切り返してくる人」が苦手だと明言しています。「喉輪にいったらクルンって回られちゃったりして…気が抜けちゃうよ」。

その苦手を、1996年に破りました。

1996年出来事
4月チャンピオン・カーニバル初優勝。スティーブ・ウィリアムスさんに勝って初優勝(本人評「よくこんなゴリラに勝ったな」)
5月24日札幌中島体育センターで三沢光晴さんから三冠ヘビー級王座を奪取。決め手は狙っていた喉輪落とし
年末川田利明さんと組んで世界最強タッグ決定リーグ戦優勝
通年年間グランドスラム達成

三冠戴冠の一発には伏線がありました。前年のCC公式戦でトップロープからのネックブリーカーに負けていて、「同じ光景が来たから返せた」というのが本人の説明です。「俺も何回も同じ技を食らうほどバカじゃなかったんだね」。

そして、頂点に立った感想が最高に田上さんらしい。

「あのベルトのきったねえこと。古いし、みんな汗びっちょりで巻くからネチョネチョしてるんだよ。『俺はこんな汚いベルト欲しがってやってたんか』って思ってあんまり巻きたくなかった。でも、やっぱり名声はすごかったね」(東スポWEB 連載#10)

なお、田上さんの代名詞である手のひらを「パー」に開くポーズが生まれたのも、このCC優勝の写真撮影のときです。カメラマンが「こっち、こっち」と手を振ったのを「手を開け」という指示だと勘違いしたのが始まり。カメラマンは「そうじゃねえ、こっち向け!」と笑っていたそうです。

🐄(ウッシ小声:これ、私も似たことをやりました。打ち上げで永田裕志選手と写真を撮らせてもらったとき、永田選手の敬礼は手のひらが開いているのに、私だけ自衛隊みたいなピシッとした敬礼をしていました。ポーズは、緊張すると必ず間違います)

その後、川田さんを相手に防衛したものの、小橋さんに敗れてベルトを失います。「なんでこいつに負けるんだ」と思いつつ、「ベルトを維持するのは大変だってことを学んだね」と語っています。

🌊 馬場さんの死、そしてノアへ

1999年1月31日、ジャイアント馬場さんが亡くなります。

連載#12で語られているのは、弟子としての実務でした。葬儀のため自宅マンションまで亡きがらを運ぶのが大変だった。体が大きすぎてエレベーターに乗らない。1月なのに全員が汗だくになりながら階段で下ろした。

「びっくりしかなかったよね、本当に驚いた。亡きがらを見た時には涙が出たよ。最後に交わした言葉か…。覚えてないね。年中怒られてたから、最後も『玉!』って怒られてたんじゃないのかな」(東スポWEB 連載#12)

馬場さんは田上さんの息子・豊さんの名付け親であり、結婚の仲人でもありました。

その後、馬場元子さんの指揮で三沢さんが社長に就任し、田上さんは役員と選手会長を兼任します。そして2000年5月、臨時役員会で三沢さんを解任し、取締役たちも辞表を提出。田上さんが三沢さんに付いた理由は、はっきりしています。

「アイツの方がまともなこと言ってて、元子さんの方が『間違っている』って思ったからだね。(中略)三沢とは男の付き合いだったしね」(東スポWEB 連載#13)

残ったのは川田さんと渕選手くらい。川田さんには声をかけたものの「いや〜」という反応で、深追いはしなかったそうです。「裏切りとかそういうのはないからね」。

2000年8月、プロレスリング・ノアが旗揚げ。田上さんは取締役に就任します。当時39歳。旗揚げ戦の派手な演出については「俺は地味な人だから」と一言で流しています。

2001年5月、GHCヘビー級初代王者となった三沢さんに挑戦。この試合で新技「俺が田上」を披露しました。ただ、技名は本人が付けたものではありません。

「技名は…、俺が考えたんじゃねえんだ、リング屋が新聞記者と考えたんだよ。俺、技に名前なんかつけたことないよ」「こんなふざけた名前つけられて『俺って周りから見ると、そういう人間なのかな…』って思っちゃうよね」(東スポWEB 連載#14)

Tシャツも「田植えしてる自分」「魚を釣ってる自分」「ミキサー車に箱乗りしてる自分」。それでも「怒ってもしょうがないもんな。勝手にやって勝手に売ってくれればいいよ」。この距離感が田上さんです。

🏆 44歳でGHC初戴冠

2003年からは新日本プロレスの選手とも当たり始めます。蝶野正洋さん、永田裕志選手。ここで語られた両団体の違いが鋭い。新日本の選手は「『己』を持っている」、対して「俺らの場合は『試合で見せよう、技で見せよう』で表には出さなかった」(東スポWEB 連載#15)。

2004年9月には小橋さんのGHCヘビー級王座に挑戦して敗退。ここまでGHCのベルトには届かず、本人も「半分ベルトは諦めてた」と言います。

それでも2005年11月、日本武道館で力皇猛さんのGHCヘビー級王座に挑戦し、4度目の正直で戴冠しました。当時44歳。

「それでも勝った時はうれしかったね。GHCは4度目の正直だったし『おじさんなのにまだまだやれるな』って思ってね」(東スポWEB 連載#16)

初防衛戦の相手は、自分の元付け人だった森嶋猛さん。「負けるわけにはいかんだろ、付け人だったんだから」と、馬場さんからもらったガウンを着てリングに上がっています。普段はジャンパー派で、ここぞという試合でしか着なかったガウンです。

歴代の付け人は大森隆男選手 → 森嶋猛さん → 杉浦貴選手 → 平柳玄藩さん。連載#16では4人の素顔も語られています。

🕯 2009年6月、控え室に石森太二選手が来た

2007年7月のGHCヘビー級王座戦が、三沢さんとの最後のシングルでした。決め手はブレーンバスター式のエメラルド・フロウジョン。「二度と食らいたくないと思ったよ。受け身取れないもんな」。

そして2009年6月、広島大会のGHCタッグ選手権(王者組 バイソン・スミスさん&齋藤彰俊さん vs 三沢さん&潮崎豪選手)で、試合中の事故により三沢さんが亡くなります。享年46。

田上さんは、自分の試合を終えて控え室で休んでいました。

「試合を終えた俺が控室で休んでいた時、石森(太二)がやってきて『社長(三沢)が倒れて動かねえ』って言うんだ」「しばらくしたら『社長が死んだ』って知らせが入った。びっくりしちゃって、涙すら出なかったよ」(東スポWEB 連載#17)

翌日も試合がありました。緊急役員会でシリーズをどうするかが話し合われ、「もしこの時、俺が死んでても三沢はシリーズを続けてたんじゃないか」という判断で、続行が決まります。

そして数日後、三沢さんの妻・友美さんから社長就任を頼まれます。1、2週間考え、周囲にも頼まれて、「まあ、しょうがないか」と腹を決めた。これが2009年7月です。

💼 社長の給料が「0円」だった日

社長就任は良い選択だったか、という問いへの答えが、連載#18の冒頭です。

「悪いに決まってるよ! やめときゃ良かったって思ってる」
それでも受けた理由は、丸藤正道選手や杉浦貴選手といった若手が集まってきて「よろしくお願いします!」と言ったから。「選手らにここまで言われたらしょうがねえなって思ってさ」(東スポWEB 連載#18)

就任後に見たものは、経営の惨状でした。会社の金を使い込んでいる人間が何人もいた。刑事事件にならないよう借用書は書かれていて、月々の返済で処理するしかない。名前は伏せつつ、その役職が経理部長だったことまで語られています。

田上さんの総括は、経営の素人という自己認識とセットです。

「そういうことは三沢のころからやってたんじゃないかな。三沢も俺と似たようなもんで素人だから、気が付かないんだよ。経営がガタガタの時に受け継いだから、早い話が『貧乏くじを引かされた』ってわけだ」(東スポWEB 連載#18)

マッチメークはほとんど仲田龍さんが担当し、田上さんはタッチしていませんでした。そして経営難のなかで、こうなります。

「一番ひどい時なんか俺の給料が『0円』の時があったよ。社員やレスラーの給料を引き下げた時に、代表して俺は給料をもらわないことになった。母ちゃんがお店をやってたから、何とか飯ぐらいは食えたよ…」(東スポWEB 連載#18)

ここで出てくる「お店」が、のちに田上さん自身の職場になるステーキ居酒屋チャンプです。2012年には秋山準選手、潮崎豪選手ら5人が年内での退団を発表。「本当に負の風が吹いてたね」。

🐄(ウッシ小声:役職が上がると、真っ先に削られるのが自分の取り分になる。営業部長の私が経験しているのは経費の話くらいですが、「代表して俺はもらわない」を実際に言える人は、そんなに多くありません)

💸 4億円を、一人で背負う

現役と社長の兼業は続き、2011年10月にレギュラー出場を終了します。引退はもっと早くしたかったものの、力皇さんの引退や小橋建太さんの引退興行(2013年5月・日本武道館)があって順番が回ってこなかった。

小橋さんが辞めた翌日に、田上さんは自身の引退を発表しました。

引退試合は2013年12月・有明コロシアム。田上さん&平柳玄藩さん&森嶋猛さん&杉浦貴選手 vs 天龍源一郎さん&藤波辰爾選手&井上雅央選手&志賀賢太郎さん。ここで藤波選手と初対戦が実現しています。「ずっとやってみたかったレスラーの一人だ」。

引退後は社長業に専念しますが、向いていないという自覚は変わりませんでした。「背広とネクタイはダメなんだ。やっぱりパンツじゃないと」。

そして結末です。

2016年11月、株式会社プロレスリング・ノアの事業がエストビー株式会社に譲渡され、選手とスタッフは新会社へ移りました。社名をピーアールエヌに変えた旧会社に残ったのは、社長の田上さんだけ。2017年2月、破産手続きを開始します。

「負債は三沢の時からあったから、総額は4億円ぐらいになってたんじゃねえのかな」「責任は俺が全部1人で背負うことになった。役員やってた丸藤とかの若手レスラーにもかぶせて振り分けても、アイツらが困る。そいつらにまで負債を残していくのは嫌だったんだ」(東スポWEB 連載#19)

続く一文が、この連載で一番読まれるべきところだと思います。

「借金残して死んでいった三沢が一番悪いんだけどさ(笑い)。まあ全部終わったことだから、恨み言なんてないけどね」「しょうがないよ、これも人生。今は屋根がついてるところで雨がしのげている。まだ生きてるからいいんだよ(笑い)」(東スポWEB 連載#19)

🥩 胃の全摘、そして「肉をさばくのが俺の仕事」

破産時の心境は「もうため息しか出なかったよ」。細かな債務整理は弁護士に任せ、お金になるものは全部処分しました。最終回では「今はもう借金を返した」とも語られていて、知り合いが家を買って助けてくれたことにも触れています。

生活のための仕事は、運送会社での荷物の仕分けとマンションの管理人。仕分けは年末の期間限定、管理人はそれなりに長く続けました。57歳ごろまで、その生活だったといいます。

そして2018年、体が止まります。

「家でぶっ倒れて、救急車で病院に運ばれて胃潰瘍で緊急手術。なんとか命は助かったんだけど、その後、検査したら医者から『胃がん』だって言われて、胃を全摘出することになった。食も細くなって、もう全然食えなくなっちゃったね」(東スポWEB 最終回)

仕事を辞め、清美さんが営んでいた居酒屋へ。妻が「ステーキもやる」と言い出したため、もともと魚はさばけた田上さんが、元プロレスラーの松永光弘さん(ステーキハウス「ミスターデンジャー」店主)のところへ肉のさばき方を習いに行きます。習った時間は1時間だけ。

「お店では肉をさばくのとちゃんこを作るのが俺の仕事。ちゃんこは慣れてるお客さんだけが頼む裏メニューなんだ。腰も悪いし、居酒屋の奥の席に座ってお酒を飲むのが今の楽しみだね」(東スポWEB 最終回)

半生を振り返った最後の言葉は、こうです。

「プロレスラーになって良かったかって? まあいいんじゃない? でもやってなかったらどんな人生だったろうね。レスラーが天職だったかなんて自分には分からないけど、少なくともサラリーマンには向いてなかったとは思う」「今は人並みの生活してるから十分だよ。そんなにお金はないけれど、ご飯は食べられるし、孫はかわいいよ」(東スポWEB 最終回)

なお、これからの人生でやりたいことは「合コンかな(笑い)」とのことです。清美夫人と出会ったのも、幕下時代の「今でいう合コン」でした。

🐄(ウッシ小声:4億円と胃の全摘の話を読み終えた最後の一行が「合コン」。この人の強さは、たぶん喉輪ではなくこの着地です)

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💼 サラリーマンが田上明さんから学ぶ3つのこと

① 数字を見る人がいない組織は、静かに削られる

田上さんは社長になって初めて、使い込みの実態を知りました。本人の分析は「三沢も俺と似たようなもんで素人だから、気が付かないんだよ」。悪意の有無より前に、見る目が社内に一つもなかったという構造の話です。

これは規模に関係なく起きます。伝票や運賃の突き合わせを誰も見ていない領域は、必ず何かが緩む。プレーヤーとして一流でも、経営の数字は別のスキルです。そこを外注でも兼任でも埋めておかないと、気づくのは手遅れになってからです。

② 責任の配り方は、上に立つ人の最後の仕事

約4億円を一人で背負った理由を、田上さんは「若手レスラーにもかぶせて振り分けても、アイツらが困る」と説明しています。負債を分けられる立場にいて、分けなかった。

誇張せずに書きます。この判断で田上さんは破産し、お金になるものを全部処分しました。美談として消費するのは違う。ただ、責任の切り分けを最後に決めるのが上の人間の仕事だというのは、役職がある人なら誰でも当事者です。

③ 引き際は、自分の順番を待ってから

田上さんは早く引退したかったのに、力皇さんや小橋さんの引退が先にあって延びました。そして小橋さんの引退の翌日に自分の発表をしています。自分の花道を、先に他人の花道へ回した形です。

長く勤めた人の最後の数年は、たいてい引き継ぎと後片付けです。その順番を自分から譲れる人が、辞めたあとも呼ばれる人になる。営業20年目の私が、一番きれいだと思う辞め方はこれです。

🐄 ウッシ視点:「運送会社で荷物の仕分け」の一行

ここからは営業部長の私見です。

この連載で私がいちばん長く止まったのは、4億円でも胃の全摘でもありません。最終回のこの一行でした。

「生活のためにいろいろな仕事をやったよ。運送会社で荷物の仕分けもやったし、マンションの管理人もやった」

私は運送会社の営業部長です。うちの現場を見ている限り、年末の仕分けがどれだけ体に来るかは想像がつきます。三冠とGHCを巻いた192cmの元レスラーが、50代でそこに立っていた。しかも連載はそれを悲劇として語りません。1行で済ませて、次へ行っています。

もう一つ引っかかったのが、相撲を辞めるときの「トラックの運転手にでもなるか」です。私は元ドライバーで、21歳で営業に引き上げてもらいました。田上さんの人生の入口と出口の両方に、運送の現場がある。私がこの記事を書きたくなった理由はここです。

そして田上さんは「サラリーマンには向いてなかったとは思う」と言い切りました。向いていないと自分で言う仕事を、誰よりも真正面からやった人です。

四天王の中で、田上さんは「4人目」と呼ばれ続けてきました。ただ、団体が壊れるところまで見届けて、最後にドアを閉めて出てきたのはこの人だけです。

映像でしか四天王プロレスを追えなかった私が言うのもなんですが、田上明さんの必殺技は喉輪落としではなく「引き受けること」だったと思っています。

❓ よくある質問

Q. 田上明さんの現在は何をしていますか?

A. 茨城県つくば市の「ステーキ居酒屋チャンプ」の店主です。もともと妻の清美さんが営んでいた居酒屋で、田上さんの担当は肉をさばくこととちゃんこを作ること。ちゃんこは常連客だけが頼む裏メニューだと本人が語っています(東スポWEB 最終回)。

Q. お店はどこにありますか?

A. 東スポWEBの連載プロフィールに記載されているのは「茨城・つくば市」までです。本記事では番地などの詳細は掲載しません。営業日・営業時間を含め、来店を考えている方はお店自身の公式発信で最新情報を確認してください。

Q. 田上明さんは病気をしたのですか?

A. 2018年に自宅で倒れて救急搬送され、胃潰瘍で緊急手術を受けました。その後の検査で胃がんと診断され、胃を全摘出しています。本人は「食も細くなって、もう全然食えなくなっちゃったね」と語り、これを機に当時の仕事を辞めて店に入りました(東スポWEB 最終回)。

Q. 全日本プロレスの「四天王」は誰ですか?

A. 三沢光晴さん・川田利明さん・小橋建太さん・田上明さんの4人です。1993年6月の世界タッグ王座戦あたりから呼ばれ始めました。ただし本人は「こっぱずかしくってあんまり好きじゃなかった」「本当は『四バカ』だよ」と語っています(東スポWEB 連載#9)。

Q. 田上明さんの必殺技は何ですか?

A. 喉輪落としと、その発展型である断崖式喉輪落としが代表技です。断崖式を考案したのは田上さんではなく渕正信選手。ほかにダイナミック・ボム(獣神サンダー・ライガーさんのライガーボムをテレビで見て取り入れたもの)、2001年5月の三沢さん戦で初公開した「俺が田上」があります。技名は本人ではなく、リング設営の担当者と新聞記者が考えたものだと語られています。

Q. 4億円の借金はどうなったのですか?

A. 2016年11月にノアの事業がエストビー株式会社へ譲渡され、社名をピーアールエヌに変えた旧会社に社長の田上さんだけが残りました。2017年2月に破産手続きを開始し、負債を一人で背負っています。負債の総額は「4億円ぐらいになってたんじゃねえのかな」と語られています。最終回では「今はもう借金を返した」と述べています。

Q. なぜノアの社長になったのですか?

A. 2009年6月に三沢光晴さんが急逝したあと、三沢さんの妻・友美さんから就任を頼まれたためです。1、2週間考え、丸藤正道選手や杉浦貴選手といった若手が「よろしくお願いします!」と集まってきたことが決め手になったと語っています(東スポWEB 連載#17・#18)。

📝 まとめ:田上明さんは「最後にドアを閉めた男」

  • 1961年5月8日・埼玉県秩父市生まれ。押尾川部屋で十両(しこ名・玉麒麟安正)まで上がったが、1987年に親方に竹刀で殴られて部屋を出た
  • 6代目三遊亭円楽さんの紹介で馬場さんと面会。第一印象は「顔、でけえ」。1988年1月・後楽園ホールで馬場さんと組んでデビュー
  • 川田利明さんとの「聖鬼軍」がベストパートナー。1993年ごろから「四天王」と呼ばれ、本人は「本当は『四バカ』だよ」
  • 1996年5月24日に三沢光晴さんから三冠を奪取し、年間グランドスラム達成。断崖式喉輪落としの考案者は渕正信選手
  • 2000年8月ノア旗揚げに参加。2005年11月、44歳・4度目の挑戦でGHCヘビー級王座を初戴冠し、初防衛戦で元付け人の森嶋猛さんと対戦
  • 2009年6月、三沢さん急逝。控え室に石森太二選手が来て「社長が倒れて動かねえ」。同年7月に社長就任し、給料0円の時期も経験
  • 2013年12月・有明コロシアムで引退(藤波辰爾選手と初対戦)。2017年2月、約4億円の負債を一人で背負って破産手続きを開始
  • 荷物の仕分けやマンション管理人を経て、2018年に胃がんで胃を全摘。現在は茨城県つくば市のステーキ居酒屋の店主

四天王の中で、田上さんはずっと「4人目」でした。名勝負の本数でも、語り継がれる試合の数でも、他の3人に譲る。

ただ、団体が壊れるところまで残って、最後に電気を消して出てきたのは田上さんです。そして、その顛末を笑い話の速度で全部喋った。連載20回のうち後半4回は、プロレスの記事というより中小企業の社長の実録でした。

闘魂で、人生を叩き上げろ。マイペースにいきましょう🐄

📚 出典

本記事は、東スポWEBの連載『全日本四天王が語る歴史の分岐点 田上明 王道の証明』(連載一覧ページでは「王道の証言」表記/2026年8月18日〜9月18日掲載・全20回)のうち、第3回〜最終回の18回を一次資料として構成しました(第1回・第2回は未使用)。すべて2026年9月21日に確認しています。各回の見出しは東スポWEBの記事タイトルです。

※引用内の全角数字は半角に置き換え、原文で「」が入れ子になる箇所は内側を『』に改めています。それ以外は原文のままです。お店の営業状況など変わりうる情報は、必ず一次情報でご確認ください。


⚠️ 注意:プロレスの技は専門訓練を受けた選手が安全管理下で行うものです。一般の方は真似しないでください。

※引用は原文の全角数字を半角に、入れ子の「」を『』に改めています。原文中の編集部注(人名の補足など丸括弧内)は一部省略しています。

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次回もどうぞお楽しみに。マイペースにいきましょう!🐄


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