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キューティー鈴木|"元祖アイドルレスラー"の実力・JWP時代・引退後の現在
— 女傑列伝 —

キューティー鈴木|"元祖アイドルレスラー"の実力・JWP時代・引退後の現在

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※本記事はプロモーションを含みます

「キューティー鈴木って、結局アイドルだったの? レスラーだったの?」

「名前は聞いたことあるけど、強かったのかどうかが分からない」

女子プロレスの歴史を少しでも調べると、必ずこの名前にぶつかります。そして必ず、この2つの疑問にぶつかります。

先に、この記事の答えを置いておきます。

🎀 先に結論だけ

  • キューティー鈴木=本名・原嶋由美(旧姓・鈴木)。1969年10月22日、埼玉県川口市生まれ(2026年7月時点で56歳)。1986年9月19日デビュー、1998年12月27日引退の12年間を走った女子プロレスラー
  • リングネームは作詞家・秋元康氏の命名。写真集14冊・歌手デビュー・レギュラー番組・自分の名を冠したゲームまで展開し、「アイドルレスラー」という言葉を世に定着させた最初の一人
  • ただし本題はここ。1990年にジャパン女子プロレスのMVPを受賞したとされ、1991年10月10日には「負けたら丸坊主」の髪切りマッチでシングル初戴冠。人気だけの選手ではまったくない
  • 最大の武器は華でも派手な必殺技でもなく、受け身の巧さと打たれ強さ。12年間、大きな怪我なしで走り切った
  • 引退後は女優・タレント活動を経て、2005年に結婚し2児の母。2024年に東京スポーツで自伝連載、2025年9月にもインタビューに登場——2026年7月時点でご存命です

この記事でわかること

  • 2度のオーディション落選から、旗揚げ団体に飛び込むまでの入口
  • 「アイドルレスラー」というラベルが、本人の意思とは別に付いた経緯
  • 専門誌に厳しく書かれた時期に、本人が何を選んだのか
  • 髪切りマッチで証明した実力と、尾崎魔弓が語った「持って生まれた才能」
  • 写真集・CD・映画・ゲームまで広がったメディア展開の実物リスト
  • 1993年の対抗戦ブームで、誰と何を賭けて戦ったのか
  • 1998年の引退の理由と、2026年7月時点の現在

📝 最初におことわり:ウッシがプロレスに出会ったのはプレステの「闘魂列伝」(1995年・当時8〜9歳)で、しかも入口は新日本プロレスの男子でした。キューティー鈴木さんの全盛期をリアルタイムの生観戦で追った世代ではありません。この記事は映像と、当時の誌面・本人の証言で追いかけた人間の視点で書きます。ご本人の私生活・健康に関する事柄は、ご本人が公に語った範囲を超えて踏み込みません。

📋 キューティー鈴木 プロフィール

項目内容
リングネームキューティー鈴木
本名原嶋 由美(はらしま ゆみ/旧姓・鈴木)
生年月日1969年10月22日(2026年7月時点で56歳)
出身埼玉県川口市(市立川口女子高 中退)
身長/体重155cm / 55kg(現役時の公称)
デビュー1986年9月19日(ジャパン女子プロレス/徳島市立体育館・対プラム麻里子)
引退1998年12月27日(後楽園ホール/29歳)
所属遍歴ジャパン女子プロレス(1986〜1992)→ JWP女子プロレス(1992〜1998)
主なタイトル第11代 UWA&JWPジュニア王座(1991年)/JWP認定タッグ王座 5度
得意技ジャンピング・ニー・アタック、フルネルソン・スープレックス、キューティースペシャル、ダイビング延髄ニー
命名者秋元康(作詞家)
現在2005年に結婚。2児の母。メディア出演・執筆で登場

📝 ここがポイント:この表で見落としてほしくないのは「JWP認定タッグ王座 5度」の行です。人気で1回ベルトを持たせてもらった、という話ではありません。1992年の初代戴冠から引退年の1998年まで、約6年にわたって断続的にベルトを巻き続けている。これは「客が呼べる選手」ではなく「勝たせて成立する選手」として組まれていた証拠です。

★★★★☆ 女子プロレス列伝 VOL.9
キューティー鈴木
"元祖アイドルレスラー" / 究極のベビーフェイス
👁 リングでの佇まい
白を基調としたコスチュームで登場し、会場の空気を一気に明るくする華やかさ。だがゴングが鳴れば役割は一変、格上の相手の攻撃を正面から受け止め、受け身と粘りで試合を成立させる"耐えるベビーフェイス"。派手な決め技で勝つタイプではなく、倒れても倒れても起き上がる姿そのものが売りだった。155cmという小さな体で、体格差のある相手の前に何度も立ち上がり続けた。
⚔️ STATUS※プロレス観戦歴30年・ウッシの独断評価
🥊 パワー6
⚡ スピード8
🎯 テクニック8
🛡 受けの巧さ10
🔋 打たれ強さ10
👑 集客カリスマ10
🥋 得意技
ジャンピング・ニー・アタック フルネルソン・スープレックス キューティースペシャル ダイビング延髄ニー 魔神風車固め
👑 主な戴冠・記録
1990ジャパン女子プロレス MVP団体の年間最高評価
1991第11代 UWA&JWPジュニア王座vs ザ・スコルピオン(髪 vs マスク)
1992初代 JWP認定タッグ王座尾崎魔弓と組んで戴冠
💥 代名詞
受け身と、立ち上がる力
キューティー鈴木の本当のフィニッシュ・ホールドは技の名前ではない。同期のライバル・尾崎魔弓が「あのケガに対する強さは持って生まれた才能だと思う」と評したように、ダメージを受け切って、それでも次の試合に穴を空けない身体こそが最大の武器だった。デビューから引退まで12年、大きな怪我をせずに走り抜いている。

🚪 入口は、2度の不合格だった

全日本女子プロレスに、落ちた

キューティー鈴木さんのキャリアは、「落選」から始まっています

中学3年のとき、初めて生で観た女子プロレスに心を奪われた。そして高校受験直前の1985年1月15日、フジテレビのスタジオで全日本女子プロレスのオーディション(受験者2,000人)を受けて不合格。高校入学後の同年10月、2度目も不合格。当時の全女は女子プロレス界の巨大な本流で、そこに入れなければ道はほぼ無い時代です。

ここで諦めていれば、この記事は存在しません。彼女は東京スポーツの連載で、合格通知が来ないので全女に何度も電話をかけたと明かしています。「合格の通知が来ないんですけど!」と。

そして1986年3月、新団体「ジャパン女子プロレス」のオーディションに合格。同年8月17日の旗揚げ戦では、まだデビュー前で場内整理係(雑用係)としてリングの外にいました。

🐄 ウッシの小声:ここ、地味だけど一番好きなくだりです。ウッシも21歳で営業に抜擢されたとき、最初の仕事は資料のコピーとお茶出しでした。「主役になる人が最初から主役の席にいた例をほとんど見たことがない」というのは、20年営業をやって得た数少ない確信です。

「キューティー」は、自分で選んだ名前ではない

デビューは1986年9月19日、徳島市立体育館。相手は同期のプラム麻里子さんでした。

そして、この日から背負うことになったリングネーム「キューティー鈴木」を付けたのが、作詞家の秋元康氏です。ジャパン女子は芸能的な打ち出しを狙った団体で、名前もそのラインで用意されました。

ここが、この記事の芯です。本人はこの名前に納得していなかったとされています。

🗂 小ネタ:もし別の候補が採用されていたら

命名の候補には「アップル鈴木」「キウイ鈴木」もあったと伝えられています。本人はキューティーを含め、どの案にも不服だった。強そうな名前が欲しかった、という趣旨のことを後年語っています。

……フルーツ路線から一歩も出ていないのが逆に凄い。仮に「キウイ鈴木」で12年戦っていたら、女子プロレス史の呼び方が全部変わっていました。

🐄 ウッシの小声:名前を他人に決められる感覚、ちょっと分かります。ウッシは畜産の代理店営業をやっていた21歳のとき、メーカー研修の担当者に「ミッキーマウスはぬいぐるみを着たらミッキーになる。自分が思う良い営業マンのぬいぐるみを着て、なりきれ」と言われました。与えられたキャラを着て戦う——牛マスクを被ってブログを書いている人間が言うのだから、説得力はあると思ってください。

🎤 「アイドルレスラー」は、どう作られたのか

キューティー鈴木さんを語るとき避けて通れないのが、「アイドルレスラー」というラベルです。ここは慎重に書きます。

本人の説明はこうです。自分でそういうイメージを意識していたわけではなく、「マスコミの人に言われて、どっかで私もそういうふうにしなくちゃいけないっていう感じになっていったのかな」(ENCOUNT/2024年1月8日)。ラベルは外から貼られ、後から本人が引き受けたという順番です。

そして仕事は増え続けました。ジャパン女子は新興団体で、団体を知ってもらうための露出が必要だった。週1回だった芸能の仕事が2〜3回になり、最終的にはプロレスより忙しかったと本人が語っています。

メディア展開の実物リスト

「アイドル的に売られていた」と言葉で書くより、実物を並べたほうが早いです。

ジャンル具体的な内容
写真集通算14冊(『ジャンピングINエルニド』『CUTY』『Borderless』『赤い糸』など)。女子プロレスラーとして最多とされる
CDシングル「泣かないで」(1989年7月)/「大人になりたい」(1990年6月)/「おとめの反乱」(1991年4月)
雑誌1989年7月20日号(No.32)の『週刊ヤングジャンプ』表紙を単独で飾る
テレビ『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』『クイズダービー』『アイドル共和国』ほか
映画『びんばりハイスクール』(1990年)/『必殺!5 黄金の血』(1991年)
ゲーム『キューティー鈴木のリングサイドエンジェル』(1990年・メガドライブ/アスミック)

最後の行が個人的にいちばん衝撃です。自分の名前がタイトルになったプロレスゲームがある女子レスラー。しかもこれ、メガドライブというハードで最初のプロレスゲームです。男子スターや団体名を冠する作品が主流だった時代に、そこにデビューから4年3カ月の女子選手の個人名が乗った。人気の規模がどれほどだったか、これ一本で伝わります。

🐄 ウッシの小声:ウッシがプロレスに落ちた入口も、プレステの「闘魂列伝」でした。ゲームから入った人間は、ゲームのタイトルになった選手を”格上”として刷り込まれるんです。当時メガドライブを持っていた小学生にとって、キューティー鈴木は間違いなく”表紙の人”だった。ちなみにウッシ家のゲーム機は現在、双子に完全占領されています。プロレスゲームの出番はありません。

そして、専門誌には厳しく書かれた

華やかな露出の裏で、本人が一番きつかったと語っているのが専門誌の評価です。

「とくに専門誌は厳しかったし、ボロクソ書かれ」「一切見なかったです」(ENCOUNT/2024年1月8日)

芸能で売れるほど、「あいつはプロレスをやっていない」と書かれる。人気が出るほど実力を疑われるという、逆向きの構造に置かれていたわけです。

本人が選んだ対処法は「一切見ない」でした。ここ、賛否が出るところだと思います。でもウッシは、これは逃げではなく試合に穴を空けないための管理だったと読んでいます。読んで沈んで、翌日の後楽園で受け身が縮んだら、それこそ商品価値が落ちる。

🐄 ウッシの小声:ボロクソに書かれる痛みは、ちょっとだけ分かります。21歳で初めてメーカーの1ヶ月研修に行かされたとき、「お前ら代理店は営業失格だ」と全否定されました。報告会で言えたのは「毎日がんばりました」だけ。今は鼻を折ってくれたことに感謝していますが、当時は資料を見返すのも嫌だった。見る勇気と、見ない勇気は別物です。彼女は後者を選んで12年走り切った。それも一つの正解だと思います。

💥 実力の証明:1991年10月10日、髪を賭けた夜

「じゃあ実力はどうだったのか」。ここに答えを一つ置きます。

1991年10月10日、東京・後楽園ホール。相手はザ・スコルピオン。ルールはカベジェラ・コントラ・マスカラ——スペイン語圏の伝統ルールで、負けた側が「髪」か「マスク」を失うという一発勝負です。キューティー鈴木さんが賭けたのは髪。しかも王座がかかっていました。

結果、勝利。第11代UWA&JWPジュニア王座を奪取し、これがシングル初戴冠となりました。超満員の後楽園が大歓声に包まれ、本人は涙のベルト戴冠。

試合後のコメントが、この記事で最も大事な一行だと思っています。

「もし丸坊主になっていたら、これからやっていく自信がなくなった」
「ベルトを守りたい。もっと大きくなりたいです」(週刊プロレス/BBM「週刊プロレス昔話」)

🔍 この試合が"証明"になる理由

写真集14冊、CD3枚、レギュラー番組——その商売の全部が、彼女の髪の上に乗っていたわけです。それでも髪を賭けるカードを受けた。「人気だけの選手」なら、団体もマッチメイクも絶対にこの試合を組めません。

つまりこの一戦は、団体が彼女を「勝負を託せる選手」として扱っていたことの証明でもあるんです。前年の1990年には団体MVPも受賞したとされています。

そして、ここで前章の話とつながります。専門誌に「プロレスをやっていない」と書かれた選手が、髪を賭けて勝ってベルトを巻いた。これ以上のカウンターはありません。

🤝 敵から相棒へ:尾崎魔弓との12年

キューティー鈴木さんを語るうえで絶対に外せない相手が、同期の尾崎魔弓さんです。

2人は1986年春、高校を中退してジャパン女子の練習生になった頃、同じ川口から練習場に通っていた同期。そしてジャパン女子時代は激しく敵対していました。構図はシンプルで、「いじめる尾崎」と「耐えるキューティー」。当時の観客はこの図式に熱くなり、尾崎さん側は「いじめ甲斐がある獲物」として彼女を評価していた——つまり受けの巧さが商品として機能していたということです。

生涯の対戦成績は10勝1分け25敗。負け越しています。でもこの数字は「弱かった」証明ではなく、25回負けても興行が成立し続けたことの証明でもある。プロレスは、負ける側が上手いから成立するジャンルです。

🐄 ウッシの小声:営業の世界も似ています。会議で毎回ツッコまれる側の人間がいて、その人がいるから議論が前に進む。ウッシは何度も”受け”に回りましたが、あれは体力を使うんですよ。攻めるより疲れる。25回負けを受け切った人の凄さは、営業部長としては身に染みて分かります。

1992年4月3日、JWP旗揚げのメインで組んだ

1992年1月26日、ジャパン女子プロレスが解散。所属選手たちは新団体JWP女子プロレスを旗揚げします。

1992年4月3日、後楽園ホール。旗揚げ戦のメインイベントは「尾崎魔弓&キューティー鈴木 vs ダイナマイト関西&福岡晶」。ジャパン女子時代に敵対していた2人が、新人時代以来4年9カ月ぶりにタッグを組み、新団体の看板として並んだのがこの日です。試合は23分9秒、尾崎さんの旋回式ボディープレスで決着。当時の誌面では「掛け値なしの好勝負」と評されました。

そして同年8月9日、この2人で初代JWP認定タッグ王座を戴冠。以降、彼女はダイナマイト関西さんやデビル雅美さんとも組んでタッグ王座を通算5度戴冠しています。

敵として観客を掴み、味方として団体を背負った。この転換ができる選手は、そう多くありません。

⚔️ 1993年、対抗戦ブームという地獄と天国

1990年代前半の女子プロレスは、団体対抗戦ブームという異常な熱を持っていました。全日本女子プロレス、JWP、LLPW、FMWの選手が団体の看板をかけてぶつかる。会場は横浜アリーナや日本武道館、そして東京ドームまで埋まりました。

キューティー鈴木さんは、当初この対抗戦に興味がなかったと語っています。だが仲間が戦う姿を見て火が付いた。ここからの数年が、キャリアで最も過酷な時期になります。

時期舞台相手・内容
1993年4月横浜アリーナ全女主催のオールスター興行でW井上(井上貴子・井上京子)と対戦
1993年8月日本武道館井上貴子とシングル初対戦。「勝った方が夏のヒロインね」と挑発され、敗北
1994年有明コロシアム井上貴子にリベンジ勝利し、1勝1敗のイーブンへ
1994年11月20日東京ドーム全女主催『憧夢超女大戦』に出場。井上貴子とタッグを組んで戦った

※上記の試合内容は、本人が東京スポーツの連載(2024年3月28日)で語った証言に基づきます。

面白いのは、1993年に「勝った方が夏のヒロインね」と煽られた相手と、翌年には東京ドームで手を組んでいることです。対抗戦時代の流動性が、この2行に凝縮されています。

工藤めぐみさん・福岡晶さんとの試合について、本人はこう語っています。

「『自分が一番目立ってやる!』っていう意地がすごくて、女たちのガチな思いがぶつかり合った激しい試合」(東京スポーツ連載/2024年3月28日)

これは「アイドル対決」という売り文句で組まれたカードの、内側の話です。看板は”アイドル”でも、中でやっていたのは本気の潰し合いだった。ここを混同したまま彼女を語ると、たいてい間違えます。

🐄 ウッシの小声:外向きのキャッチコピーと、現場でやってる内容が違う——これ、サラリーマンなら全員が知っている構図ですよね。パンフレットには「トータルソリューション」って書いてあるけど、現場でやってるのは早朝の荷積みだったりする。看板の華やかさと中身の泥臭さは、両立するんです。

🕯 1997年の別れ、そして1998年の引退

ここは事実だけを、静かに書きます。

1997年8月、デビュー戦の相手であり盟友だったプラム麻里子さんが、リング上のアクシデントにより亡くなりました。女子プロレス界に大きな衝撃を与えた出来事です。

キューティー鈴木さん本人が2024年の連載で語ったところによれば、この一件から自身の引退を考えるようになったといいます(東京スポーツ連載/2024年4月3日)。

そして1998年10月15日に引退を正式表明。同年12月27日、後楽園ホールで引退試合。当初はダイナマイト関西さんとのシングルマッチが予定されていましたが、関西さんの怪我による欠場で8人タッグマッチに変更。試合は勝利で終え、仲間たちに胴上げされてリングを降りました。

引退時、29歳。デビューから12年3カ月。

引退から26年が経った2024年の連載最終回で、本人はこう書いています。

「涙が出ないほど12年間のプロレス人生に悔いはありません」(東京スポーツ連載/2024年4月4日)

🎀 引退の"美学"として語られる理由

全女の「25歳定年制」が象徴するように、女子プロレスは長く引退年齢の早いジャンルとされてきました。彼女は29歳、身体が壊れる前に、自分で日付を決めて降りた。しかも12年間、大きな怪我をせずに。

復帰オファーがあっても受けていないことも、後年のインタビューで語られています。引き際を自分で管理した選手として記録されるべきだと思います。

🏠 2026年時点の現在

結論:ご存命です。そして、リングの外で穏やかに暮らしています。

公表されている範囲で整理します。

  • 2005年5月に結婚。その後2人の男の子の母になった
  • 引退後は女優・タレントとして活動。ドラマ『私立探偵 濱マイク』(2002年)、映画『ワイルド・フラワーズ』(2004年・田島博子役)などに出演
  • 現在は2児の母として多忙な日々と紹介され、本人は「最近は年に1、2回、たまに(同期の)尾崎魔弓の試合を見に行くくらい」と語っている(ENCOUNT/2024年1月8日)
  • 2024年3月〜4月、東京スポーツで自伝連載「白い青春」を全18回+最終回で執筆。デビュー前から引退までを本人の言葉で振り返った
  • 2025年9月26日公開のインタビュー(プロレスTODAY)にも登場し、デビュー秘話などを語っている
  • 復帰については「たまに『一日限定で復帰』みたいなお話をいただきましたけど…」と連載第1回で触れており、リングに戻る意思は示していない

2026年7月30日時点でWeb検索を行い、訃報・重大な健康問題に関する報道は確認できませんでした。直近の公表情報は2025年9月のインタビュー登場です。年齢は56歳になります。

📝 注記:本記事では、ご本人が公に語られた範囲を超える私生活・健康の話題には触れていません。ご家族に関する記述も、本人が公表している「2005年結婚・2児の母」の範囲に留めています。

近年の元気な姿は、レジェンド仲間・ブル中野さんの公式YouTubeチャンネルで観られます。ゲスト出演回のタイトルは「正真正銘の美女、キューティー鈴木がきてくれました」。引退から四半世紀たっても、仲間からの紹介文がこれです。

📺 ブル中野さん公式チャンネル「ぶるちゃんねるBULLCHANNEL」ゲスト出演回より

🐄 ウッシ視点:ラベルを貼られた側の12年

ここからは、営業部長ウッシの私見です。

キューティー鈴木さんを調べていて、一番刺さったのは「名前も、キャッチコピーも、自分で決めていない」という点でした。

「キューティー」は秋元康氏が付けた。「アイドルレスラー」はマスコミが貼った。「いじめられ役」はマッチメイクが決めた。自分で選べたのは、リングの中でどう受け身を取るかだけだったんじゃないか。

そして彼女は、その一点だけを極めた。

受けの巧さと打たれ強さで、12年間ほぼ休まず、大きな怪我もせずにリングに立ち続けた。尾崎魔弓さんが「あのケガに対する強さは持って生まれた才能だと思う」と評した、その一芸で。与えられた役を、誰にも文句を言わせないレベルまで持っていったわけです。

ウッシは20年、営業をやってきました。会社の看板も、名刺の肩書も、担当エリアも、自分で選んだものは一つもありません。21歳で営業に上げられたときは、メーカーの担当者に「お前ら代理店は営業失格だ」と全否定されました。そのとき言われたのが、あの「良い営業マンのぬいぐるみを着て、なりきれ」という言葉です。

だからウッシは牛マスクを被ってブログを書いています。与えられた着ぐるみを、自分のものにしてしまえばいい。キューティー鈴木さんの12年は、それを女子プロレスという最も過酷な現場で先にやってのけた記録だと思っています。

もう一つ。「専門誌を一切見なかった」という選択について。

ウッシは20代の頃、パチンコとスロットに10年近く沈んでいました。抜け出せたきっかけは、帳簿をつけ始めたことです。数字を直視したら、負ける勝負を選ばなくなった。最後は勝ち逃げで店を出ましたが、トータルでは完全に負けています。だから「見る」ことの価値は骨身で知っているつもりです。

でも同時に、直視すると壊れるものもあると思う。翌日リングに上がって、体格差のある相手の攻撃を受け止めなきゃいけない人間が、前夜に自分を否定する活字を読み込む必要はない。彼女の「一切見なかった」は、生き延びるための選択でした。

🐄 ウッシの小声:ちなみにウッシは双子の父です。夜中に2人同時に泣かれる”デスマッチ”を何年か経験して思ったのは、受け身が取れる人間だけが翌朝も立てるということ。倒れ方が上手い人が、いちばん長く現場に残るんです。あの頃のウッシの受け身は、正直2点でした。

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❓ キューティー鈴木に関するよくある質問

Q1. キューティー鈴木は今も生きている? 今どうしてる?

A. ご存命です(2026年7月時点でWeb検索したところ、訃報等の報道はありません)。1969年10月22日生まれで56歳。2005年に結婚し2人の息子の母。2024年に東京スポーツで自伝連載を執筆し、2025年9月にもインタビューに登場しています。現在は年1〜2回、同期の試合を観に行く程度と語っています。

Q2. 「元祖アイドルレスラー」って本当? 実力はどうだったの?

A. アイドル的な売り出しの規模で言えば、写真集14冊・CDシングル3枚・自分の名を冠したゲームまで展開した例は当時他になく、「アイドルレスラー」という言葉を定着させた最初の一人と言っていいです。ただし人気だけの選手ではありません。1990年に団体MVP、1991年には髪を賭けたマッチでシングル王座を奪取、タッグ王座は通算5度。強みは派手な必殺技ではなく受け身の巧さと打たれ強さで、12年間大きな怪我なく走り切っています。

Q3. リングネームは誰が付けたの?

A. 作詞家の秋元康氏です。候補には「アップル鈴木」「キウイ鈴木」もあったと伝えられており、本人はキューティーを含めどの案にも不服だった、もっと強そうな名前がよかったという趣旨を後年語っています。

Q4. 尾崎魔弓とはどういう関係?

A. 1986年、ジャパン女子の練習場で出会った同期です(2人とも埼玉・川口から通っていました)。ジャパン女子時代は「いじめる尾崎・耐えるキューティー」の構図で激しく敵対し、生涯戦績は10勝1分け25敗で負け越し。ところが1992年のJWP旗揚げ戦メインでは新人時代以来4年9カ月ぶりにタッグを組み、初代JWP認定タッグ王座も一緒に獲っています。敵から相棒へ、という関係です。

Q5. 自分の名前が付いたゲームがあるって本当?

A. 本当です。『キューティー鈴木のリングサイドエンジェル』(1990年・メガドライブ/アスミック)メガドライブ初のプロレスゲームとされています。登場9キャラから1人を選び、セレクト技を試合前に2つ設定して戦う作品です。プロレスゲームの歴史についてはプロレスゲームおすすめランキングもどうぞ。

Q6. 引退はいつ? なぜ29歳で辞めたの?

A. 1998年12月27日、後楽園ホールで引退試合を行いました。1997年8月にデビュー戦の相手であり盟友だったプラム麻里子さんをリング上のアクシデントで失ったことが、引退を考えるきっかけになったと本人が語っています。引退試合は8人タッグマッチで勝利し、仲間に胴上げされて降りました。連載最終回では「涙が出ないほど12年間のプロレス人生に悔いはありません」と記しています。

Q7. 全盛期の試合を観る方法はある?

A. 現役時代の映像は市販DVD(『CUTY MANIA』など)や中古市場を探すのが現実的です。定額配信サービスでのJWP・ジャパン女子のアーカイブは限定的なので、まずはYouTubeで当時の断片映像を探し、深掘りしたくなったらDVDへ、という順番が無理がありません。

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キューティー鈴木がデビューした1986年、女子プロレスを社会現象にしていた張本人。同じ80年代の"外から貼られたキャラ"を背負った人の記録として、対で読むと面白いです

📝 まとめ:貼られたラベルを、12年で自分のものにした人

  • ✅ 本名は原嶋由美(旧姓・鈴木)。1969年10月22日、埼玉県川口市生まれ。2026年7月時点で56歳・ご存命
  • ✅ 全日本女子プロレスのオーディションに2度落選し、新団体ジャパン女子プロレスへ。1986年9月19日デビュー
  • ✅ リングネームは秋元康氏の命名。本人は納得していなかった
  • ✅ 写真集14冊・CD3枚・映画・自分の名を冠したメガドライブのゲーム——「アイドルレスラー」を定着させた最初の一人
  • ✅ 一方で1990年に団体MVP1991年10月10日に髪を賭けたマッチでUWA&JWPジュニア王座を奪取JWP認定タッグ王座は通算5度
  • ✅ 最大の武器は受け身の巧さと打たれ強さ。同期の尾崎魔弓が「持って生まれた才能」と評した
  • ✅ 敵対していた尾崎魔弓と1992年JWP旗揚げ戦のメインでタッグ結成。1993年の対抗戦ブームでは井上貴子らと激突
  • 1998年12月27日、29歳で引退。12年間、大きな怪我なし
  • ✅ 現在は2児の母。2024年に東京スポーツで自伝連載、2025年9月にもインタビュー登場

キューティー鈴木さんの12年を「アイドル人気で売れた選手」の一行でまとめると、いちばん大事な部分が落ちます。名前もキャッチコピーも他人が決めた中で、リングの中の受け身だけは誰にも負けなかった。そういう選手です。

ラベルは、他人が貼る。中身は、自分で作れる。これは会社で肩書をもらって働いている全員に関係のある話だと、ウッシは思っています。

📺 キューティー鈴木さんの試合を観るには

現役は1986年から1998年まで。当時の試合を通しで観る手段は、いまもDVDなどの映像作品が中心です。JWP時代のシングルや、全女との対抗戦を収めた作品を探すのが近道になります。

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📚 参考・出典(13件)

本記事は以下の公開情報をもとに作成しています(すべて2026年7月30日にアクセス確認)。年号・記録は資料により表記が分かれる場合があるため、確認しきれない点は「〜とされる」と明記しています。

記載内容に誤りがあれば、お問い合わせフォームよりご指摘ください。速やかに訂正します。

⚠️ 注意:プロレス技は専門訓練を受けた選手が安全管理下で行うものです。一般の方は絶対に真似しないでください。

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🤝 令和8年 熊本地震 災害応援寄附

プロレスは「立ち上がる姿」を見せてくれる競技です。いまリングの外で立ち上がろうとしている方たちへ。このリンクにアフィリエイトは付けていません——紹介料は1円も受け取りません。

熊本県への寄附(返礼品なし・1,000円〜)→ 八代市への寄附 →